親父の戦争体験。酒田での爆撃、終戦、戦後。

親父から聴いた戦争にまつわる話。

親父の生家(染屋小路)付近で米軍戦闘機による機銃掃射に合った。近くに爆撃されたこともある。酒田にも戦闘機や爆撃機が飛来していたのだ。理由は港町だったからとのこと。輸送ルートを断つ、物流の拠点を断つというのは戦争の常道なのだろう。

親父もお袋も旧琢成小学校で終戦を迎えた。親父(当時小3)は教室で玉音放送を聴いた。お袋(小4)はグラウンドで遊んでて聞いていなかったそうだ。

終戦前に酒田にも捕虜が収容されていたそうだ。他の場所よりは手厚く扱われていたらしい。親父たち兄弟は興味本位で捕虜(西洋人)に煙草の差し入れなどをしていたらしい。「当時、収容先(牢屋?)で煙草の火はどうしていたんだろう。今思うと不思議だ」と親父。

戦後、敗戦国となり、捕虜たちは勝利者となり、立場ががらりと変わった。

米軍は自国民(それまで捕虜たち)のために、援助物資を次々とパラシュート投下してきた。パラシュートにはドラム缶(2個連結された形で)がぶら下がっていた。

低空飛行からの落下のため、パラシュートが開かず、ドラム缶が家々を直撃することも少なくなかったという。

染屋小路の生家にも落下傘が開かなかったドラム缶物資が直撃。瓦屋根を突き破った。張りが太かったため、そこにドラム缶が引っ掛かり、辛うじて人的被害はなかったという。「張りがなければ、おばあちゃん(俺の祖母)は生きていなかっただろう」。

適当に落下させられたドラム缶物資は、「拾った人がみんなで分け合ったんでしょ?」と思ったが、「いやいや。進駐軍がジープで回収しにきたよ」と。

御多分に漏れず、進駐軍は子どもの親父たちにチューインガムなどを分け与えてくれたという。

なかでも、「世の中にこんなに美味しいものがあるのか!」と思ったのが、乾燥野菜のスープだという。いまでいう、フリーズドライの野菜スープといったところか。「もらったはいいが、食べ方を知らないので、適当にお湯をかけてみたら、なんと美味しいんだ、と思ったんだ」と。

朝、親父が味噌汁ではなく、野菜スープを食べているのは、このときの影響なのか。

語り継ぎたい戦争体験。今夜はここまで。

いつか、もっとちゃんと聴かねばと思う。語り継がねば。


★マーケティングの視点★

戦争は勝ち負けを決めあう。戦争は嫌だ。世の中からなくなればいいと思う。マーケティングでは「ライバル企業に勝つ」とか「市場を奪う」「シェア争いに勝利するためには」など言ったりする人が多い。企業活動は勝ち負けではない。市場やシェアは奪うものではなく、産んだり、育てたりするものだと思う。他者(社)と戦うのではないと思う。できるだけ、みんなで幸せになるマーケティングを目指したい。